クラムボンは死んだよ。

 常識、教養と言われるものはけっこう不安定なものだと最近思う。時代によって、人によって、文化によって、地域によって違う。そんな中で教養と言えるものがあるならば、それは教科書の文章だと思う。異論は認める。

 

なぜか世代を超えて受け継がれる教養、国語の教科書。クラムボン、ごんぎつね、エーミール、李徴。彼らはいまだネット上でその面影を見ることができる、この文章を書く上で調べてみたらまだ載ってるらしい。いつもの顔ぶれに並んで、『夜のピクニック』『西の魔女が死んだ』なども載っていた。時代の流れが確かにそこにはあった。しかし、その流れはとても遅い。

 

最近、初めて味の付いていない炭酸水を飲んだ。無味のはずだけど、酸っぱく、苦く、少しレモンに似てる味だなと思った。そしてふと、全く新しい味も何かに似てると感じてしまう自分に気づいた。サソリ食べたことありますか、サソリ。あれ美味しくない蟹味噌の味がするんですよ。でも、本当は単にサソリの味のはずなんですよ。

 

何かを食べた時だけの話ではない。物語を読んで、舞台を見て、新しく会った人の顔を見て。何かに似ていると感じてしまうことがとても増えた。僕の中の新しいものを入れるボックスは今まで生きてきた中で身につけた常識でいっぱいになってきてしまったのかもしれない。

 

いや、多分違うんだな。新しいを作るのをめんどくさがって、今まであるものの中に適当につっこんでるだけなんだと思う。そして、教科書のように一部だけ差し替えて、ちゃんと時代に合わせて常識を更新できている気になってしまっている。それでは全然遅いようだ。めんどくさいが、新しいもののために新しいフォルダを作ることにしよう。意識しないとやらない、そうだ、僕はそういうやつなんだ。

 

私の文章はこれでおしまいであります。

やまなし。