『さよならアストロノーツ』
ニコニコ動画のユーザー層は10代の方が多いそうなので、大人の歌を作ってみました。そういう方達が今から10年経って社会を担うようになった時に、この曲とオレの事を思い出してもらおう!というね。これを「小林オニキス10ヵ年計画」と呼びます。
大人になるのも意外と悪くないですよ。
そんな投稿文とともに投稿された『さよならアストロノーツ』をはじめて聞いてから気づくともう9年経っていた。いろんなものを溜め込みながら僕は大人になった。
気持ちというのは自分の思っている以上に自分の中に蓄積しているものだと思う。例えば、一番ピンと来やすいのは怒りだ。何か小さなムカつくことがあったとして、小言の一つも言ったりするかもしれないが少し経つとなんとなく落ち着いて忘れたつもりになったりする。でもあるとき、なにかのきっかけで溢れてしまうとまぁ大変。昔、忘れたはずの怒りが湧き上がってくる。
すぐ思いつくのが怒りだというだけで、溜め込まれるのは当然負の感情だけではない。何度も聞いたあの曲、懸命に心身を捧げたなにか、ずっと何気なく集めてきたもの。僕たちは生きているだけで気持ちを動かされ、そういう気持ちの一部を自分の中に溜め込んでいく。
そして、あるとき、あるきっかけで自分の中で忘れていた、でも、自分の中に確かに残っていたそれが一緒に溢れるのだ。
久々に『さよならアストロノーツ』を聞いた、溜め込んでいた何かがあふれた気がした。
大人になればなるほどいろんなものが溜め込まれていく。それはいいことばかりじゃないけれど、やっぱり悪いことばかりでもない……といいなと思う。
【初音ミク】 さよならアストロノーツ 【宇宙風PV・オリジナル曲】 by 小林オニキス 音楽/動画 - ニコニコ動画
怖かったもの。
夏だ。夏といえば、怖い話だ。
僕は怖い話をするのはそんなに得意ではないので怖かったものの話をしようと思う。
幼稚園のころは、お化けが怖かった。幼稚園のバスの中で、怖い話が流行っていたのだ。
小学生のころは、飛行機が怖かった。広島の平和教育のせいだった。
中学生のころは、地震が怖かった。寝ている間に死んでしまったらどうしようと思っていた。
今はそのどれも怖くない。いや、怖いのだけど、昔ほどそういう感情が起こらない。なにがそこまで怖かったのか思い出せない。昔、あんなに怖かったことは覚えているのに。
ここから、昔好きだった曲を今聞いたらチープに感じたなんて話をすればいい話になるのだろうけど。今日はそういう話の気分じゃない。
夏だ。夏は怖い話をするものだ。
昔から死ぬのが怖い。
いつかは怖くなくなるのだろうか。なんで怖かったかわからなくなって、昔はあんなに怖かったものを怖がりもせずに招き入れるのだろうか。それともやっぱり怖いのだろうか。
どちらもやだな。どちらも怖いな。
行動原理論
行動原理、もしくは願望とか意欲というものは、人間の行動の根幹に関わるものの割に単純じゃないなぁと思う。
行動をしたからには多かれ少なかれ何かしらの意欲があり、それにはしたいという気持ち、願望等が多かれ少なかれ含まれているはずである。行動原理というか。
「美味しいものが食べたい」は多分、願望である。
では、「美味しいものが食べたいけれど出かけるのがめんどくさいので家にあるもので済ます」は願望の結果の行動だろうか。「美味しいものを食べたい」と「家から出たくない」という願望が合わさった結果、「家にあるものを食べたい」という願望が発生したとも言えるかもしれないが、それを願望や意欲と言っていいものだろうか。あえて言葉にするのならば妥協だろうけれどこれはしたいとかしたくないとかそういうニュアンスを含む言葉なのだろうか。というか、そもそも「家から出たくない」のような消極的な願望(という語彙を便宜的に使うが)を願望と言っていいのだろうか。そういう語彙ってあるのだろうか。
いやいや、まだこれは自分の願望同士のぶつかり合いで即物的だからまだいい。
例えば、「ラーメンが食べたい」という願望と、「デート相手がラーメンやさんとか連れてくと好感度を落としてくるかもしれない」があったとして、「意外とガッツリ系のイタリアンのレストランに一緒に行く」という行動を取ったとする。
これはどうなのだろう、一個前の例ともまた異なるパターンである。前のパターンと異なり今回は自分のことだけでなく、他人のことが絡んでいる。「相手の気持ちを慮って自分の何かを譲る行為」は自分の願望や意欲と別の分けられたものとして捉えられるべきだろうか。相手を喜ばせようとしてと、相手を怒らせたくないからでは意欲の質が異なるか。さらにこれは確率的な、将来的な期待値を含んでいるという点でも異なる。今、我慢することで危険性の回避、また今の若干のマイナスが将来のプラスとなる可能性で、今の気の乗らない気持ちを乗り切る。これは意欲的な行為であるか。
今まさに即物的に反射的にやりたくない、即物的に反射的にやりたいという気持ち(ex.美味しいものを食べたい)、例えば将来を見据え総合的に判断して意思決定でやろうとする意欲(ex.お金が欲しいので働く) (短期x長期)
やりたいという気持ちとやりたくないという気持ち(積極的x消極的)
他人が絡むか絡まないか(自己x他者)
意欲や願望、行動原理はもっと細かく細かく切り分けられると話をするうえで便利だと思うのだけれども、うまく切り分けられる語彙を僕は知らない。
ぐだぐだいったが長期的な行動原理に基づく意思決定を、短期的な意欲に変換したいなと思うわけです。何が言いたいかというと、美味しいものが食べたい、働きたくない、デートしたい。
幸せに生きたいですね。
ふわっとわーど、くらうどわーど。
ステーキのウェルダンがwell-doneだと気づくのに3年かかった。
そもそも、ステーキなんてそうそう食べる機会もないし、ウェルダンだとかレアだとか使う機会もないのだけど、意味としては知っていた。当然、wellもdoneも知っていた。
ある日、ふと気づいた。あっ、ウェルダンってwell doneなのか。それぞれ別の場所にちょこちょこ保存されていた言葉が繋がった瞬間である。だから、なんだというわけでもないのだけど。それで特に僕のウェルダンに対する価値観が変わるわけでもなかったのだけど。あぁ、言葉ってこんな感じでふわっと保存されてるのだなぁ思った。
子供の頃、もっと言葉はもやっと保存されていた気がする。昔は、結構ゲームをやっていたのだけれども僕はポケモン世代である。
ボルトや溶解、火炎放射、当時の僕には当然なんのことやらわかっていなかったけど、"でんき"や、"どく"や"ほのお"に関係あることはなんとなーくそれで覚えたと思う。いつ、それがそういう意味だと気付いたかは覚えていない。
そして、よくよく考えれば、当時の僕はそれがふわっとした言葉だとも思っていなかった。そういうものだと思っていた。なんとなく今までどこかで見た言葉の使われ方たちからふわっと意味も引き出して使っているのだろう。出会った数は言うなれば言葉の練度で、きっとそれが足りないまま使っている言葉もいっぱいあるのだろーなー。
なんとなく思ったことをつなぎ合わせて吐き出しただけで、だからなんだと言われればなんでもない。この文章も、何が言いたいかはっきりしないまま、ふわっと終わる。
気持ちの問題。
いい人になりたい。コミュ力が欲しい。
そんなことを思うことはないだろうか、僕はある。めっちゃある。というか、常に思っている。それと同時に、この感覚が理解できない人も一定数いるのではないかなと思う。
世の中にやらかしは2パターンある。やらかしたことに気づいていないパターンと、回避すべきだと思っていたのに避けられなかったパターンだ。
例えば、僕はここで勉強したほうがいいと思っている。しかし、やる気が出ない。やらない。
例えば、そこそこ疲れて電車に座っている、おじいちゃんがやってくる。譲るべきだけど疲れているので、席をゆずろうか迷う。
やらなかった場合、やっていないのにやらかしというのもどうかと思うが上記のやらかしでいうと後者のパターン、回避すべきだと思っていたが避けられなかったパターンである。
出来る出来ないでいうと、僕は比較的出来る。気づけば、べき論で動くことができる。勉強もするし、多分気づけば多少疲れてても席をゆずる。問題はここからなのだ。
やってもあんまり気分が良くならない。
それがどうしたと思うかもしれないのだけれど、僕は気になっているのだ。世の中のいい人はここで「いいことしたな」っていい気持ちになったりするのではないかと。他人の幸せにより気分が良いと感じたりではないかと。せめて、やるべきことをやったことで少し気分が上向くとか。気になる。もっと言えば不安になる。
いや、そもそも気づいてやれば回避できるやらかしは半分なのだ。少なく見積もっても気づいてないやらかしが同じ数、おそらくはもっと残っている。せめて、気持ちの問題で解決できる問題くらい解決しておきたいものだけど。
つよい理論
つよい理論は保護しなくても生き残りますが、よわい理論はすぐ死んでしまうので保護してあげる必要があります。知らんけど。
たまに考える。世の中にはよわい理論とつよい理論がある。いや、これは勝手に言ってるだけだけど。このつよい理論というのは議論として賛成してくれる人が多い理論という意味での強いという概念とは違う。例えば、「自殺はよくない」、「人は見た目より中身」、「多様性を認め、各個人の考え方は尊重されるべき」という理論は賛成されるべき考え方であって、議論において強いのだけれども、今回のそれとは異なる。この中で、比較的弱い論理は「多様性を認め、各個人の考えは尊重されるべき」である。
この「多様性を認め、各個人の考え方は尊重されるべき」の対立として考えられるのは「正しい考え方が存在し、画一的思想に統一されるべき」などであると思う。そして、この後者の思想そのものが尊重されるべき各個人の思想である。よって、前者の理論は後者の理論と殴り合うと相対的に弱い。
世の中見渡してみると、このよわい論理が結構溢れてるのだ。そして、このよわい論理は大抵なにかに保護されている。それは倫理的な正しさだとか、強者にとって都合のいいだとか、多数派の考え方だとか。
まぁ、こんなことは考えつつも、自分が支持したい論理は別にこういう強さとか正しさとは必ずしも関係なかったりする。よわい論理、つよい論理そんなのひとの勝手、自分の好きな論理で頑張るべき。いや、頑張らんでいいけど。
言葉輪廻
人は忘れ去られたとき、本当の死を迎えると誰かが言っていた。言葉どうだろう。
フォトジェニックという言葉が最近よく見る。例えば、かわいいパンケーキ、綺麗なイルミネーション、あるいはバカ盛りのラーメンをに撮ってSNSにあげる。それにひわだみんながいいねつける。そんな写真映えするものやイベントをフォトジェニックだというそうだ。SNSの文化、いいねの文化が生んだ現代の新語である。
いや、実際にはそうではない。
正確に言うとそれだけではない。
このフォトジェニックという言葉は確かに新しい言葉だが少なくともSNSなどの新語に比べると齢100歳近い大先輩だったりするのだ。
しかし、現在のフォトジェニックという単語はSNSとセットの要素が大きい。ある意味ではフォトジェニックという単語は生まれ変わったのだ。昔のフォトジェニックさんはもういない。
インターネットは情報を保存する機能がある。辞書もそうだが辞書に乗らないような瑣末な言葉でさえ、誰でもすぐさま意味を調べることができる時代だ。ポケベルだろうと、一発屋芸人のギャグだろうと、時代の流行語だろうと忘れ去られることは難しい。この時代、本当の意味で死語は存在しない。
しかし、同時にインターネットは情報を常に書き換え続ける。紙の辞書とは異なり、インターネットはどんな些細な情報も無限に溜め込むかわりに常に情報を書き換え続けていく。古い言葉をしらべるのは簡単だ。しかし、上書きされた言葉の古い意味を調べるは難しい。昔の言葉の意味が書き変えられることで、やっと古い言葉は忘れ去られることができる。
言葉は生まれ変わり終わってやっと死ねるのかもしれない。