あんなモノ症候群

考えたことを書き出すところです。

お気持ちの話。

人に喜んでもらうとうれしい。

 

 これは自然な感情だと思う。人に喜んでほしいし、笑ってほしいし、幸せな気分になってほしいし、好かれたいみたいな感情は自然だと思う……みたいなことをいっても否定はされない気がする。

では、人に不快に思われるとかなしいか?

つまり、人に嫌がられるとかなしい、いやな気分になられるといやだ、不幸せな気分になられるといやだみたいなことを考えるとどうだろう。

 どうだろうもこうだろうもないけれど、この理論の流れで行くとたぶんいやな気分になると思う。でも、これはどうなのだろう。人をいやな気分にしておいて、自分がいやな気分になっていいものだろうか。そりゃ人がいやな気分になってるのに喜んでるとか悪趣味かよっていわれるとそれはもちろんそのとおりなのだけど、では、「何機嫌が悪くなってるんだ、こちらも嫌な気分になるじゃん」っていうのもなかなかどうして逆切れ甚だしくないか。声に出す出さないはおいておいて。

 

 さて、人に喜ばれたいというのが自然なら、人に嫌がられたくないというのもまたある程度自然であるとは思う。では、人に嫌がられないようにすればいい。そのための行動として人に嫌がられる行動を避ける必要が本来ある。しかし、たまに「嫌がるなと主張する」「嫌がるべきではないと主張する」という方法をとるパターンをみたりする。たまに。「いやでも我慢しろ」と言っているわけではなく、「いやな気分になると私がいやな気分になるからそもそも不快に思うな」もしくは「思うべきではない」という主張。あれは醜い。醜いけどたぶんやりがち。実際に口に出すかは置いといて態度に出たりしがち。

 

そういう「主張」をする人間になりたくない。そういう時素直に自分が悪かったと思える人間になりたいなとは思うのです。最悪、別に相手に不快になられても関係ないしでも可。嘘。不快に思われたくない。うぁー。

ネタバレ依存症

 「恋は光」の最終巻を読んだ。

先月の終わりごろ最終巻が出たのだが、主人公たちの恋がどんな結末を迎えるか、どきどきした。読んでる途中で本を閉じてしまうような漫画だったが、いい漫画だったと思える作品だった。

 さて、そもそもこの漫画を知ったのは、ネットのおかげである。最終巻が出たのを知れたのもネットのおかげだ。ネット様様なのだが、同時にインターネットの情報の波は時にネタバレの脅威をはらんでいる。このインターネットの時代において、ネタバレを受けずに生きるなんてありえない。それは映画でも、漫画でも、小説でも、そして人生でも。

 

 私たちはネタバレによってなんとなく知っている。例えば、先週公開された映画がだいたいどのくらい期待できるのか知っている。これから行くラーメン屋さんがどんな味でどのくらい評判がいいのかを知っている。来週販売されるゲームがどのくらい面白いかも何となく知っている。自分の容姿が、能力がだいたいどのくらいで、どのくらいの位置にいて、これからの人生でだいたいどのくらいのものを得られる期待値があるのかを知っている。

 そして、同時にそれなしでは生きられなくなっている。ほかの人がおいしいと言っている店を探すし、人の評価が悪い映画は何となくやめておこうかと思うし、損をしないように、身に余った幸福を求めないように。こういうものがいいものだ、こういうものがおいしいといわれているのかと、先に評価を後に感想を。これ他人の評価や評判を自分の好みや能力と照らし合わせて生きている。

 

 だけど、それと同時に、ネタバレによって逃している機会もたくさんあるんだろうなと思う。特に本当に他人が評価するものが自分にとってもいいものなのかに疑問があるのならばなおさらだ。今の世の中、これから私たちの手に入れる者たちの評価がすぐにわかると同時に、自分たちの出す物自体も「いいね」の数によって良し悪しをすぐに判断されてしまう。ネタバレへの依存は「いいもの」への依存だ。「いくないもの」にたいする恐怖心だ。ただし、この世の中における「いいもの」は多数派の評価でしかない、そして、たまたま多数派の目についたものでしかない。それを思うと、本当に自分にとって「いいもの」とは何かは自分の頭で考えるのをやめるべきではないとなんとなく思ったりする今日この頃です。

 

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真贋の彼岸

ボスとリーダーの違いを知っているだろうか。

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ボスは命令するもの、リーダーは導くもの。

ボスは自分がといい、リーダーはみんなでという。

などなどなど。

……あなたはボスですか?リーダーですか?

 

なんなん??

 

 はっきり言おう、僕はこの手の二律背反や、納得する画像みたいなものが苦手である。「リーダーとボス」だろうが、「議論と話し合い」の違いだろうが、嫌いだ。一般化して「本物の○○」なんて見た瞬間、地雷を確信する。

 

 これには2点気にくわないところがあるのだ。まず1点目は言葉狩り的側面である。別にリーダーもボスも悪い言葉ではなかったはずなのに、このような説明をすることによってまるでリーダーがいい言葉、ボスが悪い言葉みたいである。なんだいい言葉って?水に聞かせるときれいな結晶になるやつか!?

 そして、もうひとつ、なにかの悪い側面を片側に押し付けていることだ。悪いというより、誰かの嫌いな側面だと言い換えられる。ものごとにはいい点とわるい点がある。まぁ、どんなものにも悪い部分は少なからずある。それは誰にとってもある程度明らかに悪いことから、まぁ半々くらいのものまでさまざまだ。 

 この悪の部分を大小ひっくるめて片側に押しつけることで、悪い部分は「偽物」の側に押し固め、「本物」の側は自分にとって好きなものだけ残していく。半々ぐらいの悪いというより嫌いな部分も、ほかの悪い部分で押し固めることで、悪いものにしてしまう。なによりもはっきりとした「偽物」を定義して追い出してしまうのは楽なのだ。そして、とてもすっきりする。悪いのは「偽物」だから仕方ない、私がそれを嫌いなのは偽物だからだ。

 

 残念ながら、僕たちは「本物」の世界に生きていない。あなたの嫌いなものも、好きなものもごちゃまぜで、この世界の本物だ。白黒をはっきりさせて自分とそのまわりにとって都合の悪いものを「偽物」としておいやってしまうのは簡単だけど、それは現実からの逃避になってしまいそうだ。

現実は真贋の彼岸にある。

それも僕がそれを現実だと思いたいだけだけど。

挨拶はあとにして。

日本は素晴らしい。なんせ日本語が通じる。
他の国も使えばいいのに日本語。なんせ日本での会話のスムーズさが全然違う。めっちゃ便利。
いや、むしろ、日本語はなぜ使われないのだろうか。難しいという話はよく聞くが、やっぱりそれが原因だろうか。困ったものだが、たしかに日本語は難しい。私も思い当たるフシがある。

挨拶といえば、外国語において、一番最初に習うものであって、それはもう当然簡単であるはずだ。ぐっともーにんぐ、ぐーてんもるげん、ぼんじゅーる、ぶえのすでぃあす、僕でも言える。
しかし、日本で二十年以上すごしているにも関わらず、僕は未だに挨拶で悩む。

「おかえりなさい」、僕はこれになんと返答すればいいのだろうか?家族だったら「ただいま」なのだろうが、たとえば、目上の方だったらどうか?「ただいま帰りました」だろうか?ちょっと丁寧すぎやしないか?あとにご主人様とでもつけるつもりか?執事か?
いや、そもそも「ただいま」に対する返答はじゃか、なんだ?「おかえり」か?友達かなんかか。じゃあ、「おかえりなさいませ」になるのだろうか?やっぱり、執事じゃないか。違うのか、じゃあメイドか?違うか、知っている。
じゃあ、「行ってきます」に対する返答はなんだ。「行ってくる」でもいい。「行ってらっしゃい」か。なんか友達だったら丁寧すぎるし、上司だったら親しすぎやしないか。

いやいや、これじゃ。日本語さえも不自由で「行ってきます」も言えやしない。それじゃあ、外にはいけないな。日本語さえも不自由で、外国語なんてもってのほかだ。外に出られにゃ仕方ない。僕はおうちにこもるとするさ。

ただいま、日本。返答はいらない。

僕らはみんなズレている。

「あなたの趣味はなんですか?」

 

  趣味と言っていいラインというのは、散々議論されてきた命題の一つであると思う。

この問いに対して、私なりに一つの答えを提示させてもらえるなら、私は一般人とズレた価値観だと答えたい。これはある種の"オタク"になることだと定義できる。もちろん趣味の定義には色々ある。ずるいと知りながらも、これは一つの考え方だと言い訳をさせてほしい。

 

 人は何かについて深く知ることで、新しい価値観を得る。"一般人"と異なる目を持つ。ある人はただ電車に乗るためだけにわざわざ飛行機を使い、またある人はただのデータに沢山の額のお金をつぎ込み、またある人は作品のなかの普通の人たちが目にもとめない技術を評価する。このズレはふとしたときに顔を出し"オタク"特有のキモさを生む。

 

  ある一定のレベルに達すると、"オタク"はこのズレた価値観と共生する術を身につける。それは"オタク"としての目を確立だ。これにより"オタク"は自分の中の"一般人"としての自分と"オタク"としての自分を分離する。こうすることにより"オタク"たちは"一般人"と"オタク"の価値観の交わる点を理解し、表に出す価値観や知識を選択することを覚えたり、"オタク"の価値観を発揮してもキモいと言われないコミュニティを作り上げる。これはSNS時代の"オタク"たちの身につけた擬態術である。正確にいうと、昔からこのようなコミュニティは隠れて存在していたはずなのだが最近はそのような隠れたコミュニティが"一般人"に対して可視化されはじめただけとも言える。

 

 この可視化が一つの問題を生む。あくまで"一般人"と"オタク"の接点を理解して表に出していた価値観や知識を"オタク"の知識だという一種の誤解である。この誤解により発生するのが自称"オタク"である。悲しいかな、彼らはあくまでその一部の価値観を"オタク"の価値観だと考えてて"一般人"のまま"オタク"を自称する。キモくないまま、ときに"オタク"をキモいと思う価値観を保持したまま悪気なく。

 

  この "オタク"はときに"一般人"のままコミュニティに入りこんだり、ときに"一般人"のまま"オタク"としてグループを作ってしまうことがある。結果として、コミュニティの中においても、"一般人"の判断基準としても、自称"オタク"のレベルに近づくように"オタク"のラインは下げられてキモいのラインも同じく下がることにな?。つまり、"オタク"たちがキモいと思われるリスクを高める要因となる。"オタク"たちにとって自称"オタク"たちとの価値観のズレはキモさを生む、"一般人"と"オタク"の価値観がズレているように。いや、同じ"オタク"としてそれ以上に。

 

  それでも、それでもだ。"オタク"は自称"オタク"に敵意を向けてはならない。仮に嫌悪感を感じてしまってもだ。彼らもまた、純粋に同じ趣味を楽しむ"オタク"なのだ。むしろ、一般人から見て"オタク"としてズレてしまっているのは自称"オタク"ではないもともと"オタク"たちだったほうなのだ。

 

  一つの趣味を続けて行けば、いつかは"オタク"の価値観はコミュニティからズレていき、キモくなってしまうときがくる。コミュニティにキモさを感じる時、それは自分自身がキモいときなのだ。そのキモさを認め、コミュニティの中で新しい価値観を受容(擬態)するか、そのコミュニティを捨てること、それが"オタク"  を迫害しないため、真の"オタク"が唯一できることだと僕は思う。

 

わかっちゃいるんだけど、思考と行動がズレちゃうんだなぁ。

 

ジャグリングのセンスや才能について思うことをそういう言葉を極力使わずに話す

  将来的なことを考えると料理を上手に作りたい。

  パートナーへの不満は多種多様なものだ思うが、想像するに味の好みが合わないというのは長期的にみるとかなり致命的な話ではないとかと思う。短期的に見ればいいが、長期的にみるとお互いに料理を作るのだ。 いやいや、そもそも味の好みが違うだけならいい。味自体はわかっているのだから、一応相手好みの味付けもわかるかもしれない。

  だが、例えば、味音痴の場合はどうだろう。困った、そもそも味の認知ができていない。何が外れているのかわからない。 味音痴だったらどうしよう。

 

  あぁ、いや、そもそも味音痴ってなんだ。味音痴、うまい、まずいの総合的判断が下手?塩味とか個別の味を感じる解像度が低くて、多少しょっぱくても、薄味でもちょうどいいって感じちゃう?はたまた、そもそも個別の味に対する中心値が他の人とずれてる?いやいや、そもそも分離ができなくて、何が足りないとか個別の味の判別ができないのかもしれない。当然、材料もわからないので料理の分解もできないし、個別の食材の風味を組み合わせがどのような効果を生むのか想像できないかもしれない。

 

 個人的に料理のセンス、才能と呼ばれる部分は比較的この味覚と好みの部分に多く存在すると思っている。 他に調理の技術が上がるスピードが早いとか、独創的な調理法、レシピを作れるとかもセンスなのだけど、前者は時間をかけることである程度解決できてしまうし、後者は結局最終的に完成品が味覚のバランス感覚に大きく依存する。

味覚のセンスのなさは料理の出来不出来に大きく影響を与える。改善しようにも、そもそも何が美味しいのかの判別があまりできていないからだ。さっき食べたあの料理を作りたいなぁと思って作ってみても、なにかどこかが足りない味になる。

 

  さて……ここからはもし、もしも、あなたが自分が特別味覚に対するセンスがないのではないかと思った時の対処法を少しだけ。あなたがプロの料理人になりたいわけじゃないならば、散々耳にタコだと思うのだけどなんだかんだこれがいい。

 

 1.きちんとレシピを見て作る、できれば初心者でも簡単なものから(下ごしらえや、焼き時間などなんとなくでやらない、先人に習うのがなんだかんだ良い)

2.なんとなく流行っている調味料や調理法を不用意に使うことは避けたほうが無難(味がぼやっとしてしまうことが多い、意識的に使おう)

3.誰が食べるのか考えて作る

4.美味しいものをたくさん食べる

5.作ったものは味見する

 

その上で、ちょっとだけ自分好みに味付けしよう。わざわざ奇をてらったアレンジをする必要はない、ちょっと自分好みの味付けに調整するだけで、それが独創的な味付けになることだってあるのだ。プロじゃない僕らに求められる独創性はだいたいそのくらいの隠し味でいいのだと僕は思う。

 

  

罪や罰

被験者にある人が電気ショックを受けている映像を見せる。ある被験者たちには「この人はあとで報酬をもらえるので電気ショックを受けています」という、ある被験者たちには「この人は特に理由もないけど電気ショックを受けています」という。
被験者に印象を聞くと、特に理由もなく電気ショックをうけている人の方が印象が悪くなる。

 

世の中には偶然はない。ものごとは必ず因果関係があって起こる。しかし、それは『コインを弾いて表が出たのはコインが表になるような弾かれ方をしたからだ』といっているだけの話だ。それを必然と呼ぶのはなかなかに傲慢ではないか。僕たちは人だ、サイコロを振らない神じゃあるまい。

 

人間は理由を求める生き物である。
といえば、聞こえがいいが、逆に言うと理由のないものにも勝手に理由をつけてしまいがちな生き物であると思う。

 

僕たちはたまに理不尽に特に意味もなく、罰を受けることがある。周りの誰も悪くないからといって君が悪いわけじゃない。君に罪がなくても罰があることもある。たまには、それでいいじゃん楽に行こうぜ。