あんなモノ症候群

考えたことを書き出すところです。

気持ちの問題。

いい人になりたい。コミュ力が欲しい。

そんなことを思うことはないだろうか、僕はある。めっちゃある。というか、常に思っている。それと同時に、この感覚が理解できない人も一定数いるのではないかなと思う。

 

世の中にやらかしは2パターンある。やらかしたことに気づいていないパターンと、回避すべきだと思っていたのに避けられなかったパターンだ。

例えば、僕はここで勉強したほうがいいと思っている。しかし、やる気が出ない。やらない。

例えば、そこそこ疲れて電車に座っている、おじいちゃんがやってくる。譲るべきだけど疲れているので、席をゆずろうか迷う。 

やらなかった場合、やっていないのにやらかしというのもどうかと思うが上記のやらかしでいうと後者のパターン、回避すべきだと思っていたが避けられなかったパターンである。

 

出来る出来ないでいうと、僕は比較的出来る。気づけば、べき論で動くことができる。勉強もするし、多分気づけば多少疲れてても席をゆずる。問題はここからなのだ。

やってもあんまり気分が良くならない。

 

それがどうしたと思うかもしれないのだけれど、僕は気になっているのだ。世の中のいい人はここで「いいことしたな」っていい気持ちになったりするのではないかと。他人の幸せにより気分が良いと感じたりではないかと。せめて、やるべきことをやったことで少し気分が上向くとか。気になる。もっと言えば不安になる。

 

いや、そもそも気づいてやれば回避できるやらかしは半分なのだ。少なく見積もっても気づいてないやらかしが同じ数、おそらくはもっと残っている。せめて、気持ちの問題で解決できる問題くらい解決しておきたいものだけど。

 

 

つよい理論

つよい理論は保護しなくても生き残りますが、よわい理論はすぐ死んでしまうので保護してあげる必要があります。知らんけど。

 

たまに考える。世の中にはよわい理論とつよい理論がある。いや、これは勝手に言ってるだけだけど。このつよい理論というのは議論として賛成してくれる人が多い理論という意味での強いという概念とは違う。例えば、「自殺はよくない」、「人は見た目より中身」、「多様性を認め、各個人の考え方は尊重されるべき」という理論は賛成されるべき考え方であって、議論において強いのだけれども、今回のそれとは異なる。この中で、比較的弱い論理は「多様性を認め、各個人の考えは尊重されるべき」である。

 

この「多様性を認め、各個人の考え方は尊重されるべき」の対立として考えられるのは「正しい考え方が存在し、画一的思想に統一されるべき」などであると思う。そして、この後者の思想そのものが尊重されるべき各個人の思想である。よって、前者の理論は後者の理論と殴り合うと相対的に弱い。

 

世の中見渡してみると、このよわい論理が結構溢れてるのだ。そして、このよわい論理は大抵なにかに保護されている。それは倫理的な正しさだとか、強者にとって都合のいいだとか、多数派の考え方だとか。

 

まぁ、こんなことは考えつつも、自分が支持したい論理は別にこういう強さとか正しさとは必ずしも関係なかったりする。よわい論理、つよい論理そんなのひとの勝手、自分の好きな論理で頑張るべき。いや、頑張らんでいいけど。

 

 

 

 

言葉輪廻

人は忘れ去られたとき、本当の死を迎えると誰かが言っていた。言葉どうだろう。

 

フォトジェニックという言葉が最近よく見る。例えば、かわいいパンケーキ、綺麗なイルミネーション、あるいはバカ盛りのラーメンをに撮ってSNSにあげる。それにひわだみんながいいねつける。そんな写真映えするものやイベントをフォトジェニックだというそうだ。SNSの文化、いいねの文化が生んだ現代の新語である。

 

いや、実際にはそうではない。

正確に言うとそれだけではない。

 このフォトジェニックという言葉は確かに新しい言葉だが少なくともSNSなどの新語に比べると齢100歳近い大先輩だったりするのだ。

しかし、現在のフォトジェニックという単語はSNSとセットの要素が大きい。ある意味ではフォトジェニックという単語は生まれ変わったのだ。昔のフォトジェニックさんはもういない。

 

インターネットは情報を保存する機能がある。辞書もそうだが辞書に乗らないような瑣末な言葉でさえ、誰でもすぐさま意味を調べることができる時代だ。ポケベルだろうと、一発屋芸人のギャグだろうと、時代の流行語だろうと忘れ去られることは難しい。この時代、本当の意味で死語は存在しない。

 

しかし、同時にインターネットは情報を常に書き換え続ける。紙の辞書とは異なり、インターネットはどんな些細な情報も無限に溜め込むかわりに常に情報を書き換え続けていく。古い言葉をしらべるのは簡単だ。しかし、上書きされた言葉の古い意味を調べるは難しい。昔の言葉の意味が書き変えられることで、やっと古い言葉は忘れ去られることができる。

言葉は生まれ変わり終わってやっと死ねるのかもしれない。

物語語り

最近、Prime Videoをよく使っている。もともとamazon Primeの会員ではあったのだけど、特に使っていなかったのだけどアプリを入れると、端末にダウンロードできることを知ってから使いはじめた。お家でWi-Fiを使えば、通信速度制限を気にせず動画を観れる。便利だ。そんなPrime Videoで『偽物語』が配信され始めた。

 

今更だけど、僕は西尾維新が好きだ。その中でも、物語シリーズが好きだ。もう22巻も出ているとさすがに最近ぐだぐだだったが、最新刊『結物語』はなかなか初期の空気感が出ていてよかった。

 

閑話休題

 

先に触れた『偽物語』を含むアニメ『物語シリーズ』はなかなか面白いアニメだったりする。そもそも、『物語シリーズ』は会話劇が多い。昨今のラノベも会話ばかりだと言われるが、もうそんなものではない。場面が動かない。1話の登場人物が2人だったりすることすらある。絵が動かない。キャラクターを描くだけではもたない。となると、映像に何を写すか。演出である。心象風景、抽象化、印象操作、読めないほどの量の文字、多かれ少なかれ映像作品には含まれる演出だけで会話劇を映像作品たらしめる。このアニメを見た後に、他のアニメを見ると今まで見えなかった演出が見えてきたりする。

 

アニメに偶然はない。影も、天気も、街灯も、必ず誰かによって描かれている。人が描いたものには意図がある。気付こうと気づかなかろうと、その意図のきめ細やかさが観る人に働き、良さを作るんだろうなぁと思う。

演出は難しい。意図がわかりやすすぎると考えられてしまう。頭で考えられては演出が機能しない。しかし、わからないようにしすぎてしまうと印象に残らない。

そういう演出の意図に気づけるようになりたいような、気づかず楽しく見たいような。 

 

その点、『物語シリーズ』はもはや演出の物量で思考をオーバーフローさせるので、意図がどうとか考え尽くせないところがいい。多分、僕がまったく気にもとめてない演出とかもいっぱい入ってると思う。

 

余談だが、このアニメには副音声がある。なんとオーディオコメンタリーでキャラクターが喋る。ただでさえ会話劇のアニメで副音声でもキャラクターが喋り倒す。なんなら本編より喋る。声優さん、本当にお疲れ様である。意図の話でいうと、『猫物語(黒)』の副音声の意図に気づいた時、とてもゾクッとしたので是非みなさんこれのためにもDVDを見て欲しい。これを楽しむためにはある程度本編の知識が必要なのだけど。

 

物語シリーズ』をみんなに見て欲しいというのがこの文章の意図だったりする。伝わっただろうか。もう、完全にただの宣伝である。

何かいいことあったらいいね。 

 

 

こんばんは、あんなモノ症候群のお時間です。

メディアの発展は凄まじい。テレビが発達し、インターネットが発達し、そんな現在においていまだにラジオが生き残り続けることを昔どのくらいの人が予測していただろうか。僕はどちらかというとテレビっ子だったし、ラジオを聴く手段をそもそも持っていなかった。しかし、今や全くテレビは見ていないのにパソコンを使ってよくラジオを聴いている。

 

テレビの番組の配信も見たりするが、あれはパソコンを使ってテレビを見ているという気分にならない、不思議だ。テレビでやっている番組でも生放送であってもテレビで見ないとテレビを見てる気になれないが、ラジオはパソコンを使っていてもなんとなくラジオを聴いている気になれる。実際、ウェブラジオという言葉はよく聞くが、ウェブテレビという言葉にはなんとなく違和感を感じてしまう。なんなら映像がついているウェブラジオなんてものもある。ネットの世界はラジオの勝利、大金星だ。

 

ラジオを聞いてるとそのパーソナリティのすごさに驚く、特にパーソナリティが1人のラジオはすごい。複数のトークはまだいい。誰かに見せる形であるとはいえ目の前にいる相手とのコミュニケーションをとれる。反応がその場で帰ってくるというのは大きいと思う。それに対して、1人のパーソナリティはどうだ。相手のリアクションもなく、間違いなく聞き手であるその場にいない僕たちに向けて語りかけるのだ。何よりもそれが必ずしも身のある話ではないのがすごい。

 

ラジオとネットはコミュニケーションの形という意味で相性が良かったのだと思う。特にこうやってちょっと長めの文章を書くようになって感じるようになったことだが、インターネットに文章を書くというのは歪んだコミュニケーションだ。書いてる時は1人だが、なんだかんだと理由をつけても読み手に向けて書いている。読み手がいると何かを伝えたくなってしまう。なんとなくカッコつけたくなってしまうし、教訓めいたり、いい話めいたりさせたくなってしまう。

しかし、ラジオのパーソナリティはすごい。必ずしも中身のある話ではないのだ。その話で伝えたい言葉やオチや挟まれるギャグだけでない話自体がすでに面白い。そして、たまにふらっといい話を差し込んだりする、憎い。

 

そんなラジオのパーソナリティに憧れながら、今日も僕はカッコつけた文章を書いてしまうんです、いやはや。

さて、どうやらそろそろお時間です。また来週この場所でお会いしましょう、さようなら。

クラムボンは死んだよ。

 常識、教養と言われるものはけっこう不安定なものだと最近思う。時代によって、人によって、文化によって、地域によって違う。そんな中で教養と言えるものがあるならば、それは教科書の文章だと思う。異論は認める。

 

なぜか世代を超えて受け継がれる教養、国語の教科書。クラムボン、ごんぎつね、エーミール、李徴。彼らはいまだネット上でその面影を見ることができる、この文章を書く上で調べてみたらまだ載ってるらしい。いつもの顔ぶれに並んで、『夜のピクニック』『西の魔女が死んだ』なども載っていた。時代の流れが確かにそこにはあった。しかし、その流れはとても遅い。

 

最近、初めて味の付いていない炭酸水を飲んだ。無味のはずだけど、酸っぱく、苦く、少しレモンに似てる味だなと思った。そしてふと、全く新しい味も何かに似てると感じてしまう自分に気づいた。サソリ食べたことありますか、サソリ。あれ美味しくない蟹味噌の味がするんですよ。でも、本当は単にサソリの味のはずなんですよ。

 

何かを食べた時だけの話ではない。物語を読んで、舞台を見て、新しく会った人の顔を見て。何かに似ていると感じてしまうことがとても増えた。僕の中の新しいものを入れるボックスは今まで生きてきた中で身につけた常識でいっぱいになってきてしまったのかもしれない。

 

いや、多分違うんだな。新しいを作るのをめんどくさがって、今まであるものの中に適当につっこんでるだけなんだと思う。そして、教科書のように一部だけ差し替えて、ちゃんと時代に合わせて常識を更新できている気になってしまっている。それでは全然遅いようだ。めんどくさいが、新しいもののために新しいフォルダを作ることにしよう。意識しないとやらない、そうだ、僕はそういうやつなんだ。

 

私の文章はこれでおしまいであります。

やまなし。

嫌わない勇気

『好きになるのに理由はいらない』

かっこいい、一度は使ってみたいセリフである。きっと彼女に「私のどこが好きなの」なんて言われたときに使えばそのあまりのかっこよさに好感度が上がったり下がったりそのままだったりするに違いない。『嫌われる勇気』などでお馴染みのアドラー先生も先に行動があり、そのあと過去に理由を求めるのだと言っていた。先に愛があり、そのあと理由をつけるのだ。かわいいから好きなのではない、好きな子はかわいいのだ。そういう彼女をください。できればどこが好きとか聞かない人がいいです。何の話だ。

 

たとえ話をしたい。あなたはある同期と初めてお酒を飲んだ。そして、あなたは知ってしまう。彼はお酒を飲むとめんどくさいということ、そして口が悪いことも。この人の本心はこんなものなのかななんて感じてしまう。次の日、同期はいつも通り。まぁ、「昨日はちょっと酔いすぎちゃった」なんていって。でも、間違いなくいつも通り、ずっと。でも、あなたは彼をいつも通りの目で見ることができない。

 

なんかちょっとありそうな話である。好きになるのに理由はいらない、嫌いになるのにも(たぶん)理由はいらないのだけど。なにかの理由でちょっと苦手になってしまうことがあったりするだろう。ところで、このお話におけるあなたが同期を嫌いになった理由は何か。同期の酒癖が悪かったから。それは一つの正解だ。しかし、同時にこうも考えられないだろうか。同期とお酒を飲んでしまったからだ

 

「お酒を飲んだら口が悪かったから、本当はそういうやつなんだ」「みんなトラぶっとって仕事がやばいのにあんま残業してくれなかった、協調性がない」「食べ方の行儀が悪い、育ちが知れる」

 

少し考えてしまう。そもそも、ある出来事、一定の条件が発生しなければわからなかったその人の一側面でその人全体の評価を下げてしまうのはもったいないのではないだろうか。「お酒を一緒にのまなかったら」「みんながきつくなるほどの残業がなかったら」「一緒にご飯を食べなかったら」その人のことをちょっと苦手に感じることはなかった。だったら、僕が気にしなかったら。だったら、その状況だけ避けることはできないか。それが無理でもその状況の時のその人だけなんとか分離できないだろうか。

 

本性が出る。この言葉はいろいろな枕詞から導かれる。「窮地になると」、「お酒を飲むと」、「調子に乗った時ほど」などなど。この人は本当はこういう人だ、だから全体がこういう人なんだと判断したい。なんなら、試してみたいとさえ感じてしまう。本性を出させたいと。でも、それは結局その人の一側面でしかない。知ってはいるのだけど。知った気になりたい、相手の本性を。こういう一面を持っている人はこういう本性を持っている人なんだと判別したい。だって、そうしないと僕がいい人だと思っているあの人も僕が許せない側面を持っているかもしれないとなってしまう。それは怖いことだから。

 

その人の本性を決めつけて嫌うのは自分を守るための行為で、本性を暴こうとする、悪いところをわざわざ探そうとするのは弱さだ。嫌わない勇気が欲しい。