行動原理論

行動原理、もしくは願望とか意欲というものは、人間の行動の根幹に関わるものの割に単純じゃないなぁと思う。

 

行動をしたからには多かれ少なかれ何かしらの意欲があり、それにはしたいという気持ち、願望等が多かれ少なかれ含まれているはずである。行動原理というか。

 

「美味しいものが食べたい」は多分、願望である。

では、「美味しいものが食べたいけれど出かけるのがめんどくさいので家にあるもので済ます」は願望の結果の行動だろうか。「美味しいものを食べたい」と「家から出たくない」という願望が合わさった結果、「家にあるものを食べたい」という願望が発生したとも言えるかもしれないが、それを願望や意欲と言っていいものだろうか。あえて言葉にするのならば妥協だろうけれどこれはしたいとかしたくないとかそういうニュアンスを含む言葉なのだろうか。というか、そもそも「家から出たくない」のような消極的な願望(という語彙を便宜的に使うが)を願望と言っていいのだろうか。そういう語彙ってあるのだろうか。

 

いやいや、まだこれは自分の願望同士のぶつかり合いで即物的だからまだいい。

例えば、「ラーメンが食べたい」という願望と、「デート相手がラーメンやさんとか連れてくと好感度を落としてくるかもしれない」があったとして、「意外とガッツリ系のイタリアンのレストランに一緒に行く」という行動を取ったとする。

これはどうなのだろう、一個前の例ともまた異なるパターンである。前のパターンと異なり今回は自分のことだけでなく、他人のことが絡んでいる。「相手の気持ちを慮って自分の何かを譲る行為」は自分の願望や意欲と別の分けられたものとして捉えられるべきだろうか。相手を喜ばせようとしてと、相手を怒らせたくないからでは意欲の質が異なるか。さらにこれは確率的な、将来的な期待値を含んでいるという点でも異なる。今、我慢することで危険性の回避、また今の若干のマイナスが将来のプラスとなる可能性で、今の気の乗らない気持ちを乗り切る。これは意欲的な行為であるか。

 

 

今まさに即物的に反射的にやりたくない、即物的に反射的にやりたいという気持ち(ex.美味しいものを食べたい)、例えば将来を見据え総合的に判断して意思決定でやろうとする意欲(ex.お金が欲しいので働く) (短期x長期)

やりたいという気持ちとやりたくないという気持ち(積極的x消極的)

他人が絡むか絡まないか(自己x他者)

 

意欲や願望、行動原理はもっと細かく細かく切り分けられると話をするうえで便利だと思うのだけれども、うまく切り分けられる語彙を僕は知らない。

 

ぐだぐだいったが長期的な行動原理に基づく意思決定を、短期的な意欲に変換したいなと思うわけです。何が言いたいかというと、美味しいものが食べたい、働きたくない、デートしたい。

 

幸せに生きたいですね。

ふわっとわーど、くらうどわーど。

ステーキのウェルダンがwell-doneだと気づくのに3年かかった。

そもそも、ステーキなんてそうそう食べる機会もないし、ウェルダンだとかレアだとか使う機会もないのだけど、意味としては知っていた。当然、wellもdoneも知っていた。

 

ある日、ふと気づいた。あっ、ウェルダンってwell doneなのか。それぞれ別の場所にちょこちょこ保存されていた言葉が繋がった瞬間である。だから、なんだというわけでもないのだけど。それで特に僕のウェルダンに対する価値観が変わるわけでもなかったのだけど。あぁ、言葉ってこんな感じでふわっと保存されてるのだなぁ思った。

 

子供の頃、もっと言葉はもやっと保存されていた気がする。昔は、結構ゲームをやっていたのだけれども僕はポケモン世代である。

10まんボルトや、ようかいえき、かえんほうしゃ

ボルトや溶解、火炎放射、当時の僕には当然なんのことやらわかっていなかったけど、"でんき"や、"どく"や"ほのお"に関係あることはなんとなーくそれで覚えたと思う。いつ、それがそういう意味だと気付いたかは覚えていない。

 

そして、よくよく考えれば、当時の僕はそれがふわっとした言葉だとも思っていなかった。そういうものだと思っていた。なんとなく今までどこかで見た言葉の使われ方たちからふわっと意味も引き出して使っているのだろう。出会った数は言うなれば言葉の練度で、きっとそれが足りないまま使っている言葉もいっぱいあるのだろーなー。

なんとなく思ったことをつなぎ合わせて吐き出しただけで、だからなんだと言われればなんでもない。この文章も、何が言いたいかはっきりしないまま、ふわっと終わる。

気持ちの問題。

いい人になりたい。コミュ力が欲しい。

そんなことを思うことはないだろうか、僕はある。めっちゃある。というか、常に思っている。それと同時に、この感覚が理解できない人も一定数いるのではないかなと思う。

 

世の中にやらかしは2パターンある。やらかしたことに気づいていないパターンと、回避すべきだと思っていたのに避けられなかったパターンだ。

例えば、僕はここで勉強したほうがいいと思っている。しかし、やる気が出ない。やらない。

例えば、そこそこ疲れて電車に座っている、おじいちゃんがやってくる。譲るべきだけど疲れているので、席をゆずろうか迷う。 

やらなかった場合、やっていないのにやらかしというのもどうかと思うが上記のやらかしでいうと後者のパターン、回避すべきだと思っていたが避けられなかったパターンである。

 

出来る出来ないでいうと、僕は比較的出来る。気づけば、べき論で動くことができる。勉強もするし、多分気づけば多少疲れてても席をゆずる。問題はここからなのだ。

やってもあんまり気分が良くならない。

 

それがどうしたと思うかもしれないのだけれど、僕は気になっているのだ。世の中のいい人はここで「いいことしたな」っていい気持ちになったりするのではないかと。他人の幸せにより気分が良いと感じたりではないかと。せめて、やるべきことをやったことで少し気分が上向くとか。気になる。もっと言えば不安になる。

 

いや、そもそも気づいてやれば回避できるやらかしは半分なのだ。少なく見積もっても気づいてないやらかしが同じ数、おそらくはもっと残っている。せめて、気持ちの問題で解決できる問題くらい解決しておきたいものだけど。

 

 

つよい理論

つよい理論は保護しなくても生き残りますが、よわい理論はすぐ死んでしまうので保護してあげる必要があります。知らんけど。

 

たまに考える。世の中にはよわい理論とつよい理論がある。いや、これは勝手に言ってるだけだけど。このつよい理論というのは議論として賛成してくれる人が多い理論という意味での強いという概念とは違う。例えば、「自殺はよくない」、「人は見た目より中身」、「多様性を認め、各個人の考え方は尊重されるべき」という理論は賛成されるべき考え方であって、議論において強いのだけれども、今回のそれとは異なる。この中で、比較的弱い論理は「多様性を認め、各個人の考えは尊重されるべき」である。

 

この「多様性を認め、各個人の考え方は尊重されるべき」の対立として考えられるのは「正しい考え方が存在し、画一的思想に統一されるべき」などであると思う。そして、この後者の思想そのものが尊重されるべき各個人の思想である。よって、前者の理論は後者の理論と殴り合うと相対的に弱い。

 

世の中見渡してみると、このよわい論理が結構溢れてるのだ。そして、このよわい論理は大抵なにかに保護されている。それは倫理的な正しさだとか、強者にとって都合のいいだとか、多数派の考え方だとか。

 

まぁ、こんなことは考えつつも、自分が支持したい論理は別にこういう強さとか正しさとは必ずしも関係なかったりする。よわい論理、つよい論理そんなのひとの勝手、自分の好きな論理で頑張るべき。いや、頑張らんでいいけど。

 

 

 

 

言葉輪廻

人は忘れ去られたとき、本当の死を迎えると誰かが言っていた。言葉どうだろう。

 

フォトジェニックという言葉が最近よく見る。例えば、かわいいパンケーキ、綺麗なイルミネーション、あるいはバカ盛りのラーメンをに撮ってSNSにあげる。それにひわだみんながいいねつける。そんな写真映えするものやイベントをフォトジェニックだというそうだ。SNSの文化、いいねの文化が生んだ現代の新語である。

 

いや、実際にはそうではない。

正確に言うとそれだけではない。

 このフォトジェニックという言葉は確かに新しい言葉だが少なくともSNSなどの新語に比べると齢100歳近い大先輩だったりするのだ。

しかし、現在のフォトジェニックという単語はSNSとセットの要素が大きい。ある意味ではフォトジェニックという単語は生まれ変わったのだ。昔のフォトジェニックさんはもういない。

 

インターネットは情報を保存する機能がある。辞書もそうだが辞書に乗らないような瑣末な言葉でさえ、誰でもすぐさま意味を調べることができる時代だ。ポケベルだろうと、一発屋芸人のギャグだろうと、時代の流行語だろうと忘れ去られることは難しい。この時代、本当の意味で死語は存在しない。

 

しかし、同時にインターネットは情報を常に書き換え続ける。紙の辞書とは異なり、インターネットはどんな些細な情報も無限に溜め込むかわりに常に情報を書き換え続けていく。古い言葉をしらべるのは簡単だ。しかし、上書きされた言葉の古い意味を調べるは難しい。昔の言葉の意味が書き変えられることで、やっと古い言葉は忘れ去られることができる。

言葉は生まれ変わり終わってやっと死ねるのかもしれない。

物語語り

最近、Prime Videoをよく使っている。もともとamazon Primeの会員ではあったのだけど、特に使っていなかったのだけどアプリを入れると、端末にダウンロードできることを知ってから使いはじめた。お家でWi-Fiを使えば、通信速度制限を気にせず動画を観れる。便利だ。そんなPrime Videoで『偽物語』が配信され始めた。

 

今更だけど、僕は西尾維新が好きだ。その中でも、物語シリーズが好きだ。もう22巻も出ているとさすがに最近ぐだぐだだったが、最新刊『結物語』はなかなか初期の空気感が出ていてよかった。

 

閑話休題

 

先に触れた『偽物語』を含むアニメ『物語シリーズ』はなかなか面白いアニメだったりする。そもそも、『物語シリーズ』は会話劇が多い。昨今のラノベも会話ばかりだと言われるが、もうそんなものではない。場面が動かない。1話の登場人物が2人だったりすることすらある。絵が動かない。キャラクターを描くだけではもたない。となると、映像に何を写すか。演出である。心象風景、抽象化、印象操作、読めないほどの量の文字、多かれ少なかれ映像作品には含まれる演出だけで会話劇を映像作品たらしめる。このアニメを見た後に、他のアニメを見ると今まで見えなかった演出が見えてきたりする。

 

アニメに偶然はない。影も、天気も、街灯も、必ず誰かによって描かれている。人が描いたものには意図がある。気付こうと気づかなかろうと、その意図のきめ細やかさが観る人に働き、良さを作るんだろうなぁと思う。

演出は難しい。意図がわかりやすすぎると考えられてしまう。頭で考えられては演出が機能しない。しかし、わからないようにしすぎてしまうと印象に残らない。

そういう演出の意図に気づけるようになりたいような、気づかず楽しく見たいような。 

 

その点、『物語シリーズ』はもはや演出の物量で思考をオーバーフローさせるので、意図がどうとか考え尽くせないところがいい。多分、僕がまったく気にもとめてない演出とかもいっぱい入ってると思う。

 

余談だが、このアニメには副音声がある。なんとオーディオコメンタリーでキャラクターが喋る。ただでさえ会話劇のアニメで副音声でもキャラクターが喋り倒す。なんなら本編より喋る。声優さん、本当にお疲れ様である。意図の話でいうと、『猫物語(黒)』の副音声の意図に気づいた時、とてもゾクッとしたので是非みなさんこれのためにもDVDを見て欲しい。これを楽しむためにはある程度本編の知識が必要なのだけど。

 

物語シリーズ』をみんなに見て欲しいというのがこの文章の意図だったりする。伝わっただろうか。もう、完全にただの宣伝である。

何かいいことあったらいいね。 

 

 

こんばんは、あんなモノ症候群のお時間です。

メディアの発展は凄まじい。テレビが発達し、インターネットが発達し、そんな現在においていまだにラジオが生き残り続けることを昔どのくらいの人が予測していただろうか。僕はどちらかというとテレビっ子だったし、ラジオを聴く手段をそもそも持っていなかった。しかし、今や全くテレビは見ていないのにパソコンを使ってよくラジオを聴いている。

 

テレビの番組の配信も見たりするが、あれはパソコンを使ってテレビを見ているという気分にならない、不思議だ。テレビでやっている番組でも生放送であってもテレビで見ないとテレビを見てる気になれないが、ラジオはパソコンを使っていてもなんとなくラジオを聴いている気になれる。実際、ウェブラジオという言葉はよく聞くが、ウェブテレビという言葉にはなんとなく違和感を感じてしまう。なんなら映像がついているウェブラジオなんてものもある。ネットの世界はラジオの勝利、大金星だ。

 

ラジオを聞いてるとそのパーソナリティのすごさに驚く、特にパーソナリティが1人のラジオはすごい。複数のトークはまだいい。誰かに見せる形であるとはいえ目の前にいる相手とのコミュニケーションをとれる。反応がその場で帰ってくるというのは大きいと思う。それに対して、1人のパーソナリティはどうだ。相手のリアクションもなく、間違いなく聞き手であるその場にいない僕たちに向けて語りかけるのだ。何よりもそれが必ずしも身のある話ではないのがすごい。

 

ラジオとネットはコミュニケーションの形という意味で相性が良かったのだと思う。特にこうやってちょっと長めの文章を書くようになって感じるようになったことだが、インターネットに文章を書くというのは歪んだコミュニケーションだ。書いてる時は1人だが、なんだかんだと理由をつけても読み手に向けて書いている。読み手がいると何かを伝えたくなってしまう。なんとなくカッコつけたくなってしまうし、教訓めいたり、いい話めいたりさせたくなってしまう。

しかし、ラジオのパーソナリティはすごい。必ずしも中身のある話ではないのだ。その話で伝えたい言葉やオチや挟まれるギャグだけでない話自体がすでに面白い。そして、たまにふらっといい話を差し込んだりする、憎い。

 

そんなラジオのパーソナリティに憧れながら、今日も僕はカッコつけた文章を書いてしまうんです、いやはや。

さて、どうやらそろそろお時間です。また来週この場所でお会いしましょう、さようなら。